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紫の一閃 [小品]

img007.jpg

open bridge [小品]

開放的な空間に曲線が走る様子が、海を跨ぐ巨大な橋を連想させます。


個展の準備 [小品]

きわめて小さな、しかし大きな構想の作品。
全100点の切手大の絵画群。
次回から載せていきます。


辞書を食った男 [メディアから]

9日の毎日新聞のコラムで、100年前に太平洋戦争や日本の敗戦を予想し、憂いた本を書いた人がいた事を知った。本のタイトルは「日本の禍機」著者は朝河貫一、当時彼はアメリカの名門エール大学の講師(のちに教授)であった。(今でも購入できます)

100年前にエール大学で教えていた日本人がいたなどとは知らなかった。
英和辞典を1日2ページ暗記し、憶えたページを食べてしまったというのは彼の中学時代のエピソードらしい。

この人の学者としての専門はヨーロッパ中世史だが、思想家としての大きな業績は比較文化史による日本の封建制の起源で、それがアメリカの学会で高く評価されていた。戦後の学者のように自虐的に封建制を批判するのでなく、むしろ欧米人に日本の美徳を伝える使命感を持って、「武士道」の起源として研究していたようだ。

とはいえ国家主義や国粋主義には反対の立場で、戦争を遂行する日本の軍部を常に批判していて、天皇宛の大統領親書の起草までしている。南京の虐殺事件では「武士道にもとる」と批判しているのが面白い。サムライなのだ。

 アメリカでの学生時代(19世紀ですよ!)クラスメートのつけたニックネームがまさに「サムライ」だった由。首席ではあったが差別を受けてもおかしくないのに、尊敬を集めていたというから、単に学問で秀でただけではないのだろう。(その28年前に留学した高橋是清は、なんと奴隷に売られている)

彼の父親、正澄は正真正銘の武士----武芸者で、18歳の時早くも小野派一刀流の目録と薙刀の極意を伝授されており,また,漢学・国学を修めたぱかりでなく,槍術や馬術・砲術・柔術についても励み、25歳で結婚し、小学校の教師となっている。(昔の教員が尊敬されたというのは、こうした武士階級の出身者たちであった事を考えると納得がいきますな。)

朝河貫一は、意外にも生まれた頃言葉が遅く、発育も不良だったらしい。そのため心配した父母から幼少の頃、かなり丁寧に学習の手ほどきを受けた。そして彼は無類の勉強好きに育ち、中学卒業時には英語で答辞の演説をするほどだった。これは予定外の行為で、居合わせた来賓父兄は目を白黒させていたという。内容も卓越していたらしく英国人教師は「将来、世界はこの人を知るだろう。」と語ったと伝えられている。

校内でことさら実力を披瀝する必要のない彼が、わざわざ理解する人の少ない英語でスピーチをしたのは思うに、公衆の前で英語で演説すると言う事のトレーニングとして実行したのであろう。アメリカの大学教授になったのはすでにこの時点で志を持っていたのではないだろうか。

英和辞典を暗記して食べてしまった話は当時の逸話で、私も中学の恩師から聞いた事があるが、正直実話とは思わなかった。。残った表紙は桜の木の根元に埋めたらしい。福島県郡山市の安積(あさか)高校には今もその桜が「朝河桜」として現存しているという。

日本の禍機(かき) (講談社学術文庫)

日本の禍機(かき) (講談社学術文庫)

  • 作者: 由良 君美, 朝河 貫一
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 1987/04
  • メディア: 文庫


最後の「日本人」―朝河貫一の生涯 (岩波現代文庫)

最後の「日本人」―朝河貫一の生涯 (岩波現代文庫)

  • 作者: 阿部 善雄
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2004/07
  • メディア: 文庫


朝河貫一とその時代

朝河貫一とその時代

  • 作者: 矢吹 晋
  • 出版社/メーカー: 花伝社
  • 発売日: 2007/12
  • メディア: 単行本


「驕る日本」と闘った男―日露講話条約の舞台裏と朝河貫一

「驕る日本」と闘った男―日露講話条約の舞台裏と朝河貫一

  • 作者: 清水 美和
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2005/09
  • メディア: 単行本


The Documents of Iriki―入来文書

The Documents of Iriki―入来文書

  • 作者: 朝河 貫一
  • 出版社/メーカー: 柏書房
  • 発売日: 2005/07
  • メディア: 単行本


大化改新

大化改新

  • 作者: 朝河 貫一
  • 出版社/メーカー: 柏書房
  • 発売日: 2006/06
  • メディア: 単行本


ジャコメッティと二人の日本人(7) [美術史]

凄まじい制作の苦悩 (矢内原伊作「ジャコメッティとともに」より)

11月20日 正午にサルトルを訪問する。ボーヴォワールとランズマンも
       来訪。その後アトリエに行き、いつものようにポーズする。

11月21日 「困難はいよいよ大きくなり、ぎりぎりの限界まで来ていた。
       そしてついにカタストローフが来た。
       
      「いつものように午後2時頃から始めて『難しい』『少しも
       進まない』『まるで無理矢理石を食べさせられているようだ』
      『もうどうしたらいいか分からない。』こういった悲観的な
       言葉をはきながら描いていたが、『糞!糞!』と叫んで、
       画布に向かって伸ばしていた手をハッと引っ込めてしまった。

       『糞!』彼は歯を食いしばり、凄まじい形相でぼくを見つめ、
       まっすぐにのばした腕で絵筆を画布に触れようとする。絵筆の
       先がまさに画布に触れようとする瞬間、電気に打たれたかの
       ように絵筆は引っ込められた。

       『駄目だ、私には画布に触れる勇気がない」と彼は呻いた。
        始めぼくは、彼がわざとそうしているのだろうと思った。
        が、そうではなかったのだ。『畜生!』と彼は足で床を
        蹴り、あらためて腕を延ばして絵筆を画布に近づける。

        が、またしてもはじきかえされるように腕は引っ込められた。
        そう言うことが三度も四度も繰り返された。『駄目だ』と彼は
        苦しそうな声を出した。そして絵を描くのを中断し、腰掛けた
        ままうなだれ、手で頭を抱え込み、長い間下を向いたままじっ
        としていた。

        こんなことはこれまで一度もなかったことである。これまでも
        彼はあらゆる悲観的な言葉をたえず発し、『駄目だ』『難しい』
        『苦しい』と言い続けて来た。言い続けながら、彼は休みなく
        絵筆を動かし続けて来たのだ。

        何日も何時間も、ぼくがポーズをしている限り、彼は描く手を
        一分と休めたことはなかった。その彼が五分たっても十分たっ
        てもうなだれたまま顔を上げない。

        ぼくは不安になって、『アルベルト、どうしたのですか。』
        と声をかけたが、彼は動かなかった。ぼくは座を立ってかれに
        近づいた。と、驚いたことに彼は泣いているのだった。

        彼は唇をかみ、手で眼を押さえていた。『アルベルト、どう
        したのですか』とぼくはくりかえして言い、肩に手をかけたが、
        それが合図になったかのように彼は忍び泣きの声を上げて泣き
        出した。

        『アルベルト』とぼくは呼んだが、それに続けてなんと言えば
        よいのか、言葉が出なかった。

         世界的に名声を馳せ、どの第一級の美術館も非常な高値で
        その作品を欲しがっている大芸術家、古い世代も新しい世代も
        抽象派の作家も具象派の作家も、批評家も詩人も哲学者も、
        多くの人がこぞって称賛と尊敬をおしまない働き盛りの五十五歳
        の彫刻家兼画家、しかもおよそセンチメンタルな要素のない、
        男の中の男ともいうべき剛毅の人。

        そのジャコメッティが制作に苦しんで人知れず泣いている
        などと想像できるだろうか。だが彼はぼくの前で泣いていた。」

★読んだ当時、実に衝撃的でした。ジャコメッティといえども制作にこれほど苦悩 したのはこの時期に特有のものだったようです。(---葉山の図録にある論文、ヴァレリー・フレッチャーの「ジャコメッティと矢内原--危機と打開」を参照されたし。)

なお、矢内原氏が書いている「男の中の男」という評言はフランスのARTE VIDEOのドキュメンタリーのタイトルと同じですね。このドキュメンタリーは白黒ですが、 英語字幕付きで1963年のジャコメッティがずっと語るものです。 これは翻訳して公開したいと思います。


ジャコメッティと二人の日本人(6) [美術史]


石井好子氏のエッセーに描かれたのと同時期の、矢内原伊作氏の記述です。

★これ以後は「ジャコメッティとともに」からの採録ですが
後に出た「ジャコメッティ」では削除された内容を含みます。

「日とともに焦燥が加わった。仕事の困難ばかりでなく、ぼくの出発が数日後に迫っている
という思いが彼を苦しめた。ぼくは10月29日にカイロに向かって発つ予定で、すでに二度も
出発を延期した以上、今度こそどんなことがあってもパリを離れようと決心していたのだ。」

10月26日 これまで窓からの自然光で描いていたが、この日から
       電燈の光で描くバージョンを始める。
       「実に不思議だ。電燈の光による方が頭の構造がよく
       見える。」非常な速度で彼は描いて行った。
       
       この日は石井好子を夕食に招待した日であったが、彼女
       のエッセーにあるように、1時間ほど待たせてしまう。
      
10月27日 「またもや破壊と試作の反復。レアリテとの激しい格闘」
       「5時頃いったん休憩し、カフェに行く。ゆで卵二つと
        コーヒー、これがジャコメッティの朝食兼昼食だ。」
        
       「その後アトリエに戻り、昨日始めた絵にかかったが、
        もう少し、もう少しと言いながら彼は12時近くまで
        描き続けた。」
        
       「その夜、夫妻とぼくはモンパルナスに出て遅い食事を
        した。夜中の2時頃、夫妻と別れてホテルに帰った
        ぼくは、そこに意外な1通の速達をみて驚いた。」

(この通知はエール・フランスからの通知で、ストライキのため欠航になるというもので、
矢内原氏の帰国はさらに11月2日に延期された。)

10月28日 「今朝は7時まで想像で君の顔を描き、それから寝たの
        だが良く眠れなかった。妙な夢をたくさん見た、そして
        12時前に起こされてしまった。

        かかりつけの医者のフランケルが戸を叩いたからだ。
        フランケルは何のために来たと思う?今日はアネット
        の誕生日で、そのお祝いに来てくれたのだ。
        
        ああ情けない、私は今日がアネットの誕生日だという
        ことをすっかり忘れていたのだ。悲しいことだ。」
        
       「君が発つまでにまだ五日もある!この五日は大きい。
        私は絶対君の顔を描けるだろう、絶対に、絶対に!」
        
 (この日は特にアネットの誕生日ということでレストラン「地中海」で食事しながら音楽、
文学、二人のロマンス、戦時中のジャコメッティの生活についての会話が弾んだ。)

10月30日 「貧しい裸電球の下で仕事を始めながら、『ああ』と
        かれは感嘆の声を上げる。『何ですか』と聞くと
        『今きみの背後に美しい湖が見えた。夕焼けの光を
         受けた大きな湖水だ、恍惚となるほど素晴らしい
         湖だった。』」

         エジプトと英仏の間で戦闘が始まり。11月の出発は
         ほぼ絶望的となる。

(仕事の時間がだんだん長くなり、夜、筆をおくのが11時あるいは12時になった。

「ポーズをするために自分の自由な時間が無くなる、と言ったことはもはや問題ではなくなって
いた。ジャコメッティの仕事に立ち会い、彼と話をすること以上に素晴らしい勉強はないという
ことがよく分かっていたからである。」
 
(この頃矢内原氏はジャコメッティの生活パターンに合わせ、寝るのはたいてい明け方の6時頃
 であった。★まるで毎日が大晦日と元旦みたいなものですね)

11月9日 ソ連のハンガリー攻撃に対する抗議文をサルトルが出した
      ことに感激して、ジャコメッティはサルトルに会いにゆく。
      
     「ぼくがモデルをしていた3ヶ月の間に彼が自分の方から
      進んで人に会いに行ったのは、あとにもさきにもこの時
      だけである。」               

(矢内原氏は11月中旬、11月30日の座席を予約する。しかし制作はますます困難を極め、
 いつ果てるとも知れない状態が続く。)

「『だめだ、どうしても上手く行かない。これは不可能な仕事なのだ、不可能な試みに執着する
のは狂気の沙汰だ。』と彼は描きながら言う。『それなら狂人のためにポーズする人間はどうな
のですか。』とぼくが言うと『私が狂人なら、私のためにポーズする君は私以上の狂人だ。』
と彼は答えた。」

つづく


今はないドローイング [小品]


小さな画像は以前のドローイング(2005年10月23日)
今は30に分解してそれぞれ切手より小さな絵になっている。

それが大きな画像。
2年越しの創作だ。


ジャコメッティと二人の日本人(5) [美術史]

★写真はアトリエのジャコメッティ夫妻、
下は「ナチュリスト」でマヌカンを従えて歌う石井好子です 。

では10月26日のつづきを

★ジャコメッテイ夫妻が矢内原伊作氏と石井好子氏を食事に誘った晩の話です。
 まずは石井好子氏の記述です。

「その夜はまた(レストラン)シェ・リップに行った。
アネットと矢内原さんが歩いて行く後を私とジャコメッティがついて行った。
『おかしいね。矢内原は私が行った翌日にナチュリストに行ったんだって』
彼はおかしそうに笑った。

食事の最中また、『次の夜は何に生まれたいか』が話題になり、
アネットは『オペラ歌手』、ジャコメッティは『娼婦かマヌカン』
といい、「その姿じゃね。」とみんなに笑われた。
(★マヌカンとは、歌い手のバックで半裸で踊る役の女性たちです。)

矢内原さんは「今のままの自分になりたい」と言ったので、私は少し
腹を立てた。「いい気なもんだ」と思ったのである。ジャコメッテイも
ちょっと驚いた風に、『セ・フォルミダブル!』(なんとすてきな事だろう」
と大げさに声を上げた。 

楽しくなってくる頃『いやだいやだ。毎日同じ事の繰り返し』
といいながら私は立ち上がった。
ジャコメッテイは『仕事をするという事には独立と自由がある。
家に引きこもっているよりずっと素晴らしい。』
と励ましてくれた。
(「想い出のサンフランシスコ 想い出のパリ」より)

★ 同じ場面を矢内原氏も書いています。

「僕らはタクシーでサン・ジェルマン・デプレに出かけ『ラ・フロール』
の向かいにあるレストラン『シェ・リップ』で食事をした。

ジャコメッティが知人と話をするために席を立っている間に、ぼくは
二十九日つまり明明後日にパリを発つ旨をアネットと石井さんに告げた。

『アルベルトはそれを知っているのですか、それはどうしてもアルベルトに
言わなくてはいけないわ』とアネット夫人は驚き、ぼくは『いや、アルベルト
には言わなくていいですよ。出発がいつであろうと彼が全力を挙げて仕事する事に
変わりはないのだから、予告せずに出発する方がいいと思う。予告する事は
仕事を妨げる事にしかならないだろうから。』と言った。

ジャコメッテイが席に戻るとすぐアネットは夫に『矢内原は二十九日
に発つと言っている。あなたは知っているの?』
『はっきりとは知らなかったが、後二三日の命だとは思っていた。
後二日、ああ。』彼はまるで死刑を宣告されたように暗い苦痛を顔に浮かべた
…中略

…食事はおいしく、満員のレストランは華やいだ活気に溢れている。
キャバレー『ナチュリスト』に出演している石井さんはその仕事の
苦労を話し、厭だけれども生活のためにやむを得ず働いているのだと言った。

それに対してジャコメッテイは、『いや、あなたの職業には独立と自由がある。
それは因習的な家庭に収まっているより遥かにいいではないか。もしも私が女
だったらキャバレーのダンサーになりたいと思うだろう』と言う。

『それはいいけどそれには美人でなくてはね』とアネット。
それから話は、もしももう一度この世に生まれ変わるとしたら何になりたいか、
という事になった。

ジャコメッテイはダンサーになれなかったら娼婦になりたいといい、
アネットは眼を輝かせて、私は素晴らしいオペラ歌手になりたいと言う。

『で、ヤナイハラは?』と聞かれてぼくは、『そうですね、もう一度生まれ
変わるとしても現在のぼくと同じものになりたいですね』と答えた。自然に出て
来た言葉だったが、この答えはちょっと皆を驚かせたらしい。

ことに石井さんは、『矢内原さんは幸福なのね、私はとてもそんな風には
考えられないわ。でも、本当にそう思うの?』
と半ば感心し、半ば疑わしそうに言う。

その通り、僕は幸福なのだ。ジャコメッテイ夫妻や石井さんとこうして
牡蠣を食べている、これ以上に素晴らしいことがまたとあろうか。
ジャコメッテイはぼくが言おうとしていることの意味をすぐ理解して言った。

『つまり、君は人間が完全に自由な存在なのだと言いたいのだろう』と。
しかし石井さんは賛成せず、人間は自由ではない、自分は生活のために
厭厭ながらキャバレーに出ているのだと繰り返して言い、その厭な職場で
働くために一人だけ先に座を立って出て行った。

(「ジャコメッテイとともに」より)


ジャコメッティと二人の日本人(4) [美術史]

★10月17日、ジャン・ジュネとジャコメッティ夫妻が
矢内原氏の案内で石井・朝吹宅を訪問しました。

「私たち6人は楽しく話し、楽しく食事をした。
 ジャコメッテイという人は人の話をいいかげんに聞かない。私のつまらない話にもじっと目を
見つめ、真剣に耳を澄まし、私のつたないフランス語がよく分からないときは必ず聞き返した。
誠意のあるそんな彼の態度を私は好きだった。アネットもおとなしいだけではなく、良くしゃべり、
そのしゃべり方は快かった。」

★ジャコメッテイという人は何事にも非常に真摯に、愚直に
取り組みますね。だから会話ですら真剣です。そこに期せずして
ユーモアが生じるようです。そのかわり余分なことは何もしない。

★車も運転せず住居には風呂も台所もありませんでした。ちいさな
コンロと水道だけでごくまれにアネットさんが親しい人に目玉焼き
を振る舞うことがあったと、宇佐見英治さんの回想に描かれています。

★DVDドキュメンタリーをご覧になると写真家のブラッサイが書いていたように、
相手の話を良く聞き、悲観的な内容でも元気よく、はっきり話すのが確認できます。
(「ジャコメッテイは元気よく話す。」「その声はむかし通りに魅惑的で、
 やはりてきぱきとして暖かかった。」----みすず書房「私の現実」p201,202)

★こうして未知の資料が出てくるとジャコメッテイたちが今現在生きているように
思えるから不思議ですね。過去というのもきちん発掘する事によって進行してゆくのですね。
消えたのではなく現在と平行して進んでいるようです。


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