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女性達とジャコメッティ(5) [美術史]

ジャコメッティはよくモデルを前にして
「顔と後頭部を同時に見ることができればいいのだが!」とこぼしていた。

もしかしたら彼は、モデルの頭の後ろに回り込む柔らかいアンテナの先端にくっついているような、
第三の目が欲しかったのかもしれない。

あるいはおそらく、モデルの頭部に潜り込んで、その内部の奥まった所を見る事さえ望んでいた。

彼の視覚上の探求心は、単に表層的な類似を達成する事によって満足するものではなかったのだ。
だからこそ、未知の見えないものに接近するのも可能になったのだろう。
彼は、その芸術によって生と死の認識の更新を成し遂げようとしていたのだろうか?
 
 ジャコメッティは好んでよく過去の偉大な巨匠たちの作品を模写した。
そして、同様に、現実の対象から制作する時も完全な類似を成し遂げようとした。
 しかし、厳密な類似を追求する肖像か胸像のために男性あるいは女性のモデルを前にした時、
アルベルトは決して満足しなかった。

 まるで何かが常に彼から逃げ去るかのようだった。
彼は、いかなる言葉によっても表現できないものを表現し、
形を与える事ができないものを視えるようにしようと試みていたのだろうか?
 そう、彼の手の熱狂的な動きが、私にそれを暗示していたように思われる。
 
 彼の「頭部の再現の不可能性」の問題に私もお互いの立場を超えて、深く心を打たれた。
それで二度目の訪問の時に、私は彼にこう尋ねたのだ。
「その仕事を私と試してごらんになりませんか?
 私は、あなたのためにポーズをとることができないでしょうか?」

 私は正直期待してはいなかったのだが、一週間たって、私の三回目のアトリエ訪問の時に 彼の方から
「君は、本当に私のためにポーズをとってくれるのかね?」と言ってきた。
 
 「ジャコメッティのモデルになりたい」などという申し出は、彼の拒否の可能性を恐れてこれまでにおそらく誰も口にしなかっただろうが、この場合実は無意味だった。

 実際、それは彼にとって受理か拒否かの類の問題では、もはやなかった。というのは、偶然だがより重要な決定因が関わったから。つまりアネットが風邪をひいて、そして彼は単に毎日の仕事を中断したくなかったのだ。

 私は持ち場を得て、後援者の役割から解放されたように感じた。いまや私は彼とのより直接的な関係を持つことができた。私は、他のどのモデルでも交換可能な、まさに「モデル」になったのだ。最初の短いセッションの間に、私は自分が彼の手によって繰り返して形作られている「物」になったような感じがした。

 デッサンにある抹消の痕跡のように、彼が粘土に人相学的な形を与えては削り取るので、その度に私が粘土のいまや私は彼とのより直接的な関係を持つことができた。私は、他のどのモデルでも交換可能な、まさに「モデル」になったのだ。
 
 最初の短いセッションの間に、私は自分が彼の手によって繰り返し形作られる「物」になったような感じがした。デッサンにもよく消された跡があるが、同様に彼が粘土にリアルな顔を与えてはあっというまに削り取るので、その度に私自身が粘土の中に現れては消え去るような気がしたのだ。

女性達とジャコメッティ(4) [美術史]

長い間ログを中断してしまいました。申し訳ありません。。
『女性達とジャコメッティ」というテーマの続きを掲載いたします。

前回,パオラ・カローラの胸像を見たことがないと書いたのですが,
その後、フランスから入手した本に図版がありましたので転載します。

パオラカローラ縮小.jpg


以下訳文です。

アルベルトが私の胸像を制作することに決めたとき、彼もまた自分の世界を私に開放してくれた。
つまりアネットとの二人の生活圏・友人たち・公的生活・私生活に通ずるドアを開けてくれたのだ。

 しかし、それ以前に、 我々が本当にお互いをわかるまで一ヵ月かかった。
言っておかねばならないが、私達は旧知の間柄ではなかった。
私が彼に初めて会ったのは、彼の住居兼仕事場に到着した時だったのだ。

イポリット・マンドロン通りにある未公表のそのアトリエで
私は住所を教えてくれた画家のロベルト・マッタの友人として,自己紹介をした。

私は最初から胸像を依頼するつもりでいたので、
アルベルトが私の胸像を制作してくれるかどうか話し合うために二度通った。

 二度目の訪問の際、彼は「頭部の制作は不可能だ」と言った。
しかし「現在の仕事が進んだので、最終的には今取り組んでいる頭部を完成し、
それから後日改めてパオラのものを造る」事を保証してくれた。
 これは私にとって当座諦めるに十分な提案だったろう。

しかし私は彼の言葉を文字通りには受けとらなかった。
彼が遠回しに私の申し出を拒否しようとしていたと思ったわけではない。

 彼は、他での異なる場面でも 全く同じように、
「頭部を造るのは不可能だ。」と、同様の答え方をしていたから、 私が思ったのは
「『頭部を作ることができない』というのはどういう意味なのだろうか?」ということだった。

当時の私には、 彼がそれによって何を言っているのかがよくわからなかった。
結局私にとっては、それは法廷の証言のような「彼の決まり文句」であった。

つまり彼が頭部を造る事に本当にまだ成功しなかったならば 、
彼は私の胸像や、より小さな依頼をも受け入れることができないはずだ。
これは、誰でも考える道理だ。

しかしなぜ彼は自分が望むものを達成できないのであろうか? 
そして、彼は何を成し遂げたかったのか? 
なぜ、彼はその成果に決して満足しなかったのだろうか?

ピカソとジャコメッティ [美術史]

ジロー.jpg

フランソワーズ・ジロー「ピカソとの生活」(瀬木慎一訳)を参考に
ピカソとジャコメッティの関わり、絵画観の違いを考えてみたいと思う。

時代は1947年か8年頃、アネットと結婚する前後
細長い彫刻に到達した直後の時期である。

「パリにいた時、私たちはサンジェルマン・デプレにある『プラズリ・リップ』で
よく食事した。パブロがくつろぎたいと思う時には、私たちと一緒の席で話のできる
芸術家を、そこに連れてきていた。彫刻家のジャコメッテイは彼のお気に入りの一人
だった。

私たちが夕方、リップの店の前で彼に会うと、いつもかれは、土が身体に
付いているようであり、服と髪は、いっぱいに灰色の塵をかぶっていた。

『君はジャコメッティのアトリエを見るべきだ。』とパブロは、ある夕方、
私に言った。『二人で彼を訪問しよう。』リップから帰る途中、
彼はジャコメッティに、いつ行けば会えるかと尋ねた。

『午後の一時前に来てもらえれば、いつでもいる。』と彼は言った。
『それより早くは起きないから。』」


★この返事がジャコメッティらしくて面白い。夜寝ないで仕事して
午前中寝る、という彼にとって当たり前の生活パターンが、ジョークに
聞こえてしまう。

★ピカソはジャコメッティに敬意に近い好意を持っており、彼のアトリエに自分から
訪れている。ピカソは70代の押しも押されぬ巨匠、ジャコメッティ は40代半ばの
中堅で、独自の様式が世界で評判になり始めた時期である。

日本の70代の「巨匠」は30歳も若い作家に表敬訪問したりするだろうか…。
ピカソは「洗濯舟」の時代の自分を思い出していたのかもしれない。
フランソワーズ・ジローはこの時20代後半、ピカソと出会ったときは
まだ22歳の画学生だった。

(つづく)


ジャコメッティと二人の日本人(7) [美術史]

凄まじい制作の苦悩 (矢内原伊作「ジャコメッティとともに」より)

11月20日 正午にサルトルを訪問する。ボーヴォワールとランズマンも
       来訪。その後アトリエに行き、いつものようにポーズする。

11月21日 「困難はいよいよ大きくなり、ぎりぎりの限界まで来ていた。
       そしてついにカタストローフが来た。
       
      「いつものように午後2時頃から始めて『難しい』『少しも
       進まない』『まるで無理矢理石を食べさせられているようだ』
      『もうどうしたらいいか分からない。』こういった悲観的な
       言葉をはきながら描いていたが、『糞!糞!』と叫んで、
       画布に向かって伸ばしていた手をハッと引っ込めてしまった。

       『糞!』彼は歯を食いしばり、凄まじい形相でぼくを見つめ、
       まっすぐにのばした腕で絵筆を画布に触れようとする。絵筆の
       先がまさに画布に触れようとする瞬間、電気に打たれたかの
       ように絵筆は引っ込められた。

       『駄目だ、私には画布に触れる勇気がない」と彼は呻いた。
        始めぼくは、彼がわざとそうしているのだろうと思った。
        が、そうではなかったのだ。『畜生!』と彼は足で床を
        蹴り、あらためて腕を延ばして絵筆を画布に近づける。

        が、またしてもはじきかえされるように腕は引っ込められた。
        そう言うことが三度も四度も繰り返された。『駄目だ』と彼は
        苦しそうな声を出した。そして絵を描くのを中断し、腰掛けた
        ままうなだれ、手で頭を抱え込み、長い間下を向いたままじっ
        としていた。

        こんなことはこれまで一度もなかったことである。これまでも
        彼はあらゆる悲観的な言葉をたえず発し、『駄目だ』『難しい』
        『苦しい』と言い続けて来た。言い続けながら、彼は休みなく
        絵筆を動かし続けて来たのだ。

        何日も何時間も、ぼくがポーズをしている限り、彼は描く手を
        一分と休めたことはなかった。その彼が五分たっても十分たっ
        てもうなだれたまま顔を上げない。

        ぼくは不安になって、『アルベルト、どうしたのですか。』
        と声をかけたが、彼は動かなかった。ぼくは座を立ってかれに
        近づいた。と、驚いたことに彼は泣いているのだった。

        彼は唇をかみ、手で眼を押さえていた。『アルベルト、どう
        したのですか』とぼくはくりかえして言い、肩に手をかけたが、
        それが合図になったかのように彼は忍び泣きの声を上げて泣き
        出した。

        『アルベルト』とぼくは呼んだが、それに続けてなんと言えば
        よいのか、言葉が出なかった。

         世界的に名声を馳せ、どの第一級の美術館も非常な高値で
        その作品を欲しがっている大芸術家、古い世代も新しい世代も
        抽象派の作家も具象派の作家も、批評家も詩人も哲学者も、
        多くの人がこぞって称賛と尊敬をおしまない働き盛りの五十五歳
        の彫刻家兼画家、しかもおよそセンチメンタルな要素のない、
        男の中の男ともいうべき剛毅の人。

        そのジャコメッティが制作に苦しんで人知れず泣いている
        などと想像できるだろうか。だが彼はぼくの前で泣いていた。」

★読んだ当時、実に衝撃的でした。ジャコメッティといえども制作にこれほど苦悩 したのはこの時期に特有のものだったようです。(---葉山の図録にある論文、ヴァレリー・フレッチャーの「ジャコメッティと矢内原--危機と打開」を参照されたし。)

なお、矢内原氏が書いている「男の中の男」という評言はフランスのARTE VIDEOのドキュメンタリーのタイトルと同じですね。このドキュメンタリーは白黒ですが、 英語字幕付きで1963年のジャコメッティがずっと語るものです。 これは翻訳して公開したいと思います。


ジャコメッティと二人の日本人(6) [美術史]


石井好子氏のエッセーに描かれたのと同時期の、矢内原伊作氏の記述です。

★これ以後は「ジャコメッティとともに」からの採録ですが
後に出た「ジャコメッティ」では削除された内容を含みます。

「日とともに焦燥が加わった。仕事の困難ばかりでなく、ぼくの出発が数日後に迫っている
という思いが彼を苦しめた。ぼくは10月29日にカイロに向かって発つ予定で、すでに二度も
出発を延期した以上、今度こそどんなことがあってもパリを離れようと決心していたのだ。」

10月26日 これまで窓からの自然光で描いていたが、この日から
       電燈の光で描くバージョンを始める。
       「実に不思議だ。電燈の光による方が頭の構造がよく
       見える。」非常な速度で彼は描いて行った。
       
       この日は石井好子を夕食に招待した日であったが、彼女
       のエッセーにあるように、1時間ほど待たせてしまう。
      
10月27日 「またもや破壊と試作の反復。レアリテとの激しい格闘」
       「5時頃いったん休憩し、カフェに行く。ゆで卵二つと
        コーヒー、これがジャコメッティの朝食兼昼食だ。」
        
       「その後アトリエに戻り、昨日始めた絵にかかったが、
        もう少し、もう少しと言いながら彼は12時近くまで
        描き続けた。」
        
       「その夜、夫妻とぼくはモンパルナスに出て遅い食事を
        した。夜中の2時頃、夫妻と別れてホテルに帰った
        ぼくは、そこに意外な1通の速達をみて驚いた。」

(この通知はエール・フランスからの通知で、ストライキのため欠航になるというもので、
矢内原氏の帰国はさらに11月2日に延期された。)

10月28日 「今朝は7時まで想像で君の顔を描き、それから寝たの
        だが良く眠れなかった。妙な夢をたくさん見た、そして
        12時前に起こされてしまった。

        かかりつけの医者のフランケルが戸を叩いたからだ。
        フランケルは何のために来たと思う?今日はアネット
        の誕生日で、そのお祝いに来てくれたのだ。
        
        ああ情けない、私は今日がアネットの誕生日だという
        ことをすっかり忘れていたのだ。悲しいことだ。」
        
       「君が発つまでにまだ五日もある!この五日は大きい。
        私は絶対君の顔を描けるだろう、絶対に、絶対に!」
        
 (この日は特にアネットの誕生日ということでレストラン「地中海」で食事しながら音楽、
文学、二人のロマンス、戦時中のジャコメッティの生活についての会話が弾んだ。)

10月30日 「貧しい裸電球の下で仕事を始めながら、『ああ』と
        かれは感嘆の声を上げる。『何ですか』と聞くと
        『今きみの背後に美しい湖が見えた。夕焼けの光を
         受けた大きな湖水だ、恍惚となるほど素晴らしい
         湖だった。』」

         エジプトと英仏の間で戦闘が始まり。11月の出発は
         ほぼ絶望的となる。

(仕事の時間がだんだん長くなり、夜、筆をおくのが11時あるいは12時になった。

「ポーズをするために自分の自由な時間が無くなる、と言ったことはもはや問題ではなくなって
いた。ジャコメッティの仕事に立ち会い、彼と話をすること以上に素晴らしい勉強はないという
ことがよく分かっていたからである。」
 
(この頃矢内原氏はジャコメッティの生活パターンに合わせ、寝るのはたいてい明け方の6時頃
 であった。★まるで毎日が大晦日と元旦みたいなものですね)

11月9日 ソ連のハンガリー攻撃に対する抗議文をサルトルが出した
      ことに感激して、ジャコメッティはサルトルに会いにゆく。
      
     「ぼくがモデルをしていた3ヶ月の間に彼が自分の方から
      進んで人に会いに行ったのは、あとにもさきにもこの時
      だけである。」               

(矢内原氏は11月中旬、11月30日の座席を予約する。しかし制作はますます困難を極め、
 いつ果てるとも知れない状態が続く。)

「『だめだ、どうしても上手く行かない。これは不可能な仕事なのだ、不可能な試みに執着する
のは狂気の沙汰だ。』と彼は描きながら言う。『それなら狂人のためにポーズする人間はどうな
のですか。』とぼくが言うと『私が狂人なら、私のためにポーズする君は私以上の狂人だ。』
と彼は答えた。」

つづく


ジャコメッティと二人の日本人(5) [美術史]

★写真はアトリエのジャコメッティ夫妻、
下は「ナチュリスト」でマヌカンを従えて歌う石井好子です 。

では10月26日のつづきを

★ジャコメッテイ夫妻が矢内原伊作氏と石井好子氏を食事に誘った晩の話です。
 まずは石井好子氏の記述です。

「その夜はまた(レストラン)シェ・リップに行った。
アネットと矢内原さんが歩いて行く後を私とジャコメッティがついて行った。
『おかしいね。矢内原は私が行った翌日にナチュリストに行ったんだって』
彼はおかしそうに笑った。

食事の最中また、『次の夜は何に生まれたいか』が話題になり、
アネットは『オペラ歌手』、ジャコメッティは『娼婦かマヌカン』
といい、「その姿じゃね。」とみんなに笑われた。
(★マヌカンとは、歌い手のバックで半裸で踊る役の女性たちです。)

矢内原さんは「今のままの自分になりたい」と言ったので、私は少し
腹を立てた。「いい気なもんだ」と思ったのである。ジャコメッテイも
ちょっと驚いた風に、『セ・フォルミダブル!』(なんとすてきな事だろう」
と大げさに声を上げた。 

楽しくなってくる頃『いやだいやだ。毎日同じ事の繰り返し』
といいながら私は立ち上がった。
ジャコメッテイは『仕事をするという事には独立と自由がある。
家に引きこもっているよりずっと素晴らしい。』
と励ましてくれた。
(「想い出のサンフランシスコ 想い出のパリ」より)

★ 同じ場面を矢内原氏も書いています。

「僕らはタクシーでサン・ジェルマン・デプレに出かけ『ラ・フロール』
の向かいにあるレストラン『シェ・リップ』で食事をした。

ジャコメッティが知人と話をするために席を立っている間に、ぼくは
二十九日つまり明明後日にパリを発つ旨をアネットと石井さんに告げた。

『アルベルトはそれを知っているのですか、それはどうしてもアルベルトに
言わなくてはいけないわ』とアネット夫人は驚き、ぼくは『いや、アルベルト
には言わなくていいですよ。出発がいつであろうと彼が全力を挙げて仕事する事に
変わりはないのだから、予告せずに出発する方がいいと思う。予告する事は
仕事を妨げる事にしかならないだろうから。』と言った。

ジャコメッテイが席に戻るとすぐアネットは夫に『矢内原は二十九日
に発つと言っている。あなたは知っているの?』
『はっきりとは知らなかったが、後二三日の命だとは思っていた。
後二日、ああ。』彼はまるで死刑を宣告されたように暗い苦痛を顔に浮かべた
…中略

…食事はおいしく、満員のレストランは華やいだ活気に溢れている。
キャバレー『ナチュリスト』に出演している石井さんはその仕事の
苦労を話し、厭だけれども生活のためにやむを得ず働いているのだと言った。

それに対してジャコメッテイは、『いや、あなたの職業には独立と自由がある。
それは因習的な家庭に収まっているより遥かにいいではないか。もしも私が女
だったらキャバレーのダンサーになりたいと思うだろう』と言う。

『それはいいけどそれには美人でなくてはね』とアネット。
それから話は、もしももう一度この世に生まれ変わるとしたら何になりたいか、
という事になった。

ジャコメッテイはダンサーになれなかったら娼婦になりたいといい、
アネットは眼を輝かせて、私は素晴らしいオペラ歌手になりたいと言う。

『で、ヤナイハラは?』と聞かれてぼくは、『そうですね、もう一度生まれ
変わるとしても現在のぼくと同じものになりたいですね』と答えた。自然に出て
来た言葉だったが、この答えはちょっと皆を驚かせたらしい。

ことに石井さんは、『矢内原さんは幸福なのね、私はとてもそんな風には
考えられないわ。でも、本当にそう思うの?』
と半ば感心し、半ば疑わしそうに言う。

その通り、僕は幸福なのだ。ジャコメッテイ夫妻や石井さんとこうして
牡蠣を食べている、これ以上に素晴らしいことがまたとあろうか。
ジャコメッテイはぼくが言おうとしていることの意味をすぐ理解して言った。

『つまり、君は人間が完全に自由な存在なのだと言いたいのだろう』と。
しかし石井さんは賛成せず、人間は自由ではない、自分は生活のために
厭厭ながらキャバレーに出ているのだと繰り返して言い、その厭な職場で
働くために一人だけ先に座を立って出て行った。

(「ジャコメッテイとともに」より)


ジャコメッティと二人の日本人(4) [美術史]

★10月17日、ジャン・ジュネとジャコメッティ夫妻が
矢内原氏の案内で石井・朝吹宅を訪問しました。

「私たち6人は楽しく話し、楽しく食事をした。
 ジャコメッテイという人は人の話をいいかげんに聞かない。私のつまらない話にもじっと目を
見つめ、真剣に耳を澄まし、私のつたないフランス語がよく分からないときは必ず聞き返した。
誠意のあるそんな彼の態度を私は好きだった。アネットもおとなしいだけではなく、良くしゃべり、
そのしゃべり方は快かった。」

★ジャコメッテイという人は何事にも非常に真摯に、愚直に
取り組みますね。だから会話ですら真剣です。そこに期せずして
ユーモアが生じるようです。そのかわり余分なことは何もしない。

★車も運転せず住居には風呂も台所もありませんでした。ちいさな
コンロと水道だけでごくまれにアネットさんが親しい人に目玉焼き
を振る舞うことがあったと、宇佐見英治さんの回想に描かれています。

★DVDドキュメンタリーをご覧になると写真家のブラッサイが書いていたように、
相手の話を良く聞き、悲観的な内容でも元気よく、はっきり話すのが確認できます。
(「ジャコメッテイは元気よく話す。」「その声はむかし通りに魅惑的で、
 やはりてきぱきとして暖かかった。」----みすず書房「私の現実」p201,202)

★こうして未知の資料が出てくるとジャコメッテイたちが今現在生きているように
思えるから不思議ですね。過去というのもきちん発掘する事によって進行してゆくのですね。
消えたのではなく現在と平行して進んでいるようです。


ジャコメッティと二人の日本人(3) [美術史]

石井さんは女性としての立場から、 アネットさんのことを書いています。
知識人ではない人から見たジャコメッティ というのも率直で興味深いですね。

「『今夜このコート着ようかしら。マダム・ボーヴォワール(サルトルの奥さんで思想家のシモーヌ・ド・ボーヴォワール)からいただいたのよ。』黒いビロードのコートを出して来て羽織ってみせた。洋服掛けには四、五枚、彼女の服がかかっていて、そのほかにジャコメッテイの外出用の黒服が一枚かかっているきりだった。
 
『ジャコメッテイは大金持ちですよ。寡作ですからね。一流の美術館が彼の作品を手に入れたがっていて、どんな大金だって出すんですから。』と、後にある日本人の画家が言った。ナチュリストで無造作につかみ出された札束が目に浮かんだ。しかしその人はあばら屋に住み、服はよれよれ二着という人なのだ。
 
 彼は黙々と仕事をしていた。納得のいく作品を作ることしか念頭になかった。
『ジャコメッティは「たった一つでも作ることができれば私には千の作品が作 れるだろう」と言う。それができなければ彫像は全く存在しないのであって 、目的に近づいていない限り、ジャコメッテイにとっては興味索然たるがらくたがあるばかりである。彼はすべてを壊し、またやり直す。--生命の見事な統一、それは絶対の探求における彼の一徹さである。』 と、サルトルは書いている。
 
 しかし若いアネットがその生活に耐えているのに私は敬服した。彼女は優しかった。
行儀がよく言葉遣いもきれいな人だった。
『優しい?おとなしい?とんでもない。アネットは自分の思ったことは絶対に実行する強い人ですよ。』『結婚反対の私でさえ結婚させちゃうんだから。』
 彼は大まじめで、しかし恐れ入ったよ、というポーズで話した。
 
 そんな時アネットは涙ぐんだが、確かに芯の強い人だったと思う。芯が強くなくてどうしてジャコメッティなどと生活をすることができるだろう。
 
 スイスの街で急に雨が降って来た時、ぬれながら歩いていたジャコメッティに傘をさしかけたのが縁で結ばれたと話した。ジャコメッテイもアネットを愛してはいた。しかし束縛されたくない、仕事の邪魔をされたくないとずいぶん逃げ回ったらしい。二人は仲良く静かに暮らしていた。娘のような年頃なのにアネットは母親のようだった。」
 
 (「想い出のサンフランシスコ 想い出のパリ」所収「千年生きることができなかったアルベルト・ジャコメッテイ」より)   つづく


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ジャコメッティと二人の日本人(2) [美術史]


★ポーズする矢内原氏と、描くジャコメッティです。

《シャンソン歌手石井好子氏の回想》

「疲れが出ていささか眠かった私は、(千年生きたいと言った彼に)『百年でも長い感じだけどね。』と言った。
『こじき』と言われたその人は、相変わらずいつとかしたかも知れないぼうぼうの白髪混じりの頭で、黒っぽい服は垢染み、ズボンもよれよれだった。玉のりを描いている爪には粘土がつまったまま黒くなっていた。(「…私の二十世紀」)

 向かいのカフェ『オ・ピエロ』で夜明けまで意味の無いおしゃべりをした。髪はクシャクシャ、黒い背広には所々粘土がくっついたまま、爪の中も粘土だらけ、一間こじき風のその男と夜明けまでつき合っていたのは、彼の誠意に満ちた話し振り、皺だらけの彫りの深い顔から普通には無いもの、本物の芸術家のにおいが嗅ぎ取られたからだったのだろう。(「…想い出のパリ」)
 
私は何となく彼の気魄に押され始めていた。仕事の事しか頭にない。仕事の中でしか生きられない苦痛に満ちた彫りの深い顔が美しく見え出していた。
(夜明けまで起きている事はほとんどジャコメッティの日課であった。また、石井好子氏は当時ジャコメッティが著名な芸術家であると知らなかった。)
 
翌日、同じ頃、今度は矢内原さんが一人で現れた。
『アルベルトが来たんですって?』
と言った。向かいのキャフェに行ったが、私は疲れていてあまり物もいいたくなかった。彼も黙ったまま紙のテーブルかけに詩を書いていた。夜遅く男女が向かい合って座っているのに、その女は全くあっけらかんとしている、みたいな詩だった。何となくちぐはぐな気分で別れた。
(そのあと2ページほど、ジャコメッティと矢内原の仕事ぶりについて『ジャコメッテイとともに』からの引用が続く)
 
 アネットから電話がかかり、ある日(「ジャコメッティとともに」によると10月26日)、彼らの家を訪れた。アレデア教会に近い静かな所だった。車も入らない露地を歩いて行くと、こんな所がパリにあったのかと驚くようなバラックが並んでいる。アトリエというより物置小屋だ。ギシギシきしむ戸をあけると、灰色の壁に包まれた寒々とした部屋で、矢内原さんはポーズをとり、ジャコメッティはカンバスに向かって灰色の肖像画を描いていた。
 
 小さい石炭ストーブがすみにあるきり。裸電球の下で彼は煙草を喫いながら黙々と筆を動かし、矢内原さんは粗末な木の椅子に腰かけ、まっすぐに首をのばし、身動き一つしなかった。仕事の終わるまでアネットと私は長いこと待たされた。
 寝室兼居間はいったん道に出て隣のドアから入る。ストーブが一つ。小さい洗面所とガスコンロ、木の椅子一脚、そして大きなベッドが一つあるだけ。ベッドが場所をとりすぎているので、居間の役目は果たしていない。
『近代的じゃないけど私たち、この家が好きなの。アルベルトは仕事場をかえるのがきらいなのね。でもストーブを燃すのは一仕事よ。』
私は木の椅子に、彼女はベッドに腰かけていた。       (つづく)


ジャコメッテイと二人の日本人(1) [美術史]

この3人の写真、誰が写っているかお分かりと思う。上段が越路吹雪、下段の
二人が石井好子と若き小林秀雄である。石井好子氏は芸能界だけでなく、文学
界でも一つの中心と関わっていた。そして矢内原氏を通じてジャコメッティと
親交があったことは良く知られている。

このシャンソン歌手石井好子氏のジャコメッテイ関連エッセーを入手して、考
えていた以上に深い交流があったことを知った。
改めて今年85歳の現役シャンソン歌手石井好子氏から観た1956年のジャ
コメッティと矢内原について考えてみたい。

ジャコメッテイ夫妻と矢内原伊作氏の交流はすでに世界美術史に登録されている、
つまり主要な評伝には必ず登場するエピソードである。

この三人に石井好子氏が加わり、4人の交流があった。歴史の小さな修正ではあ
るが、これはあの1956年のエピソードを補完するものであると思う。

(「さようなら私の二十世紀」「想い出のサンフランシスコ想い出のパリ」より
 1956年、有名なクラブ「ナチュリスト」で歌っていた頃)

花売りのフランソワーズが、「ヨシコ、ヨレヨレの服着た乞食みたいな人が来て
呼んでるわよ。」というので下りて行ったら、ジャコメッティが居心地悪そうに
一人で座っていた。

「お詫びにきたけど、この時刻に私がナチュリストに来たなんて信じられない、
迷惑してるんじゃないか、という思いが断ち切れない。」

数日前、私は哲学者で詩人の矢内原伊作さんに夕食を誘われた。彼が日本へ帰る送別
会で彫刻家の夫妻も一緒と聞いていたが、約束の日本料理屋で七時というのに九時ま
で来ないで私をかんかんにさせたのだった。

「そんな事ないわ。夜食に行きましょう。」と、立ち上がると、彼は勘定を言いつけた。
しわくちゃのズボンのポケットからは無造作に包まれた大金がばさばさ音を立てて出てきた。

「描けない。もう続けられないほど疲れて眠る事もできなくて、ここに来た。」
と言う。向かいのカフェ「オ・ピロ」でブドウ酒を飲んで、夜食に取りかかったら気軽に
なったらしく、紙のテーブル掛けに玉乗りの絵を描き始めた。

「今度生まれたら玉乗りになるんだ。」「今までは娼婦になりたいと思っていたけど、
今日レビューを観ていたらマヌカンも悪くないと思ったな。」「嫌な奴でも金があったら
寝ちゃおう。」私たちはキャッキャッと笑いあった。

「私は何になろうかな。歌は刹那的すぎるから、後に残る仕事がしたいわ。
彫刻家になろうかな。」と言ったら、きっとなって、「なりたきゃなっている」と答えた。
「人生は短すぎる。千年生きられたら。後千年生きれば良い仕事が残せるだろう。」
                                  (つづく)

なお、11月に待望の日本語版ジャコメッティドキュメンタリーが出たのでご紹介します。

アルベルト・ジャコメッティ―本質を見つめる芸術家

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  • 出版社/メーカー: ナウオンメディア(株)
  • 発売日: 2007/11/22
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