ジャコメッティと二人の日本人(2) [美術史]
★ポーズする矢内原氏と、描くジャコメッティです。
《シャンソン歌手石井好子氏の回想》
「疲れが出ていささか眠かった私は、(千年生きたいと言った彼に)『百年でも長い感じだけどね。』と言った。
『こじき』と言われたその人は、相変わらずいつとかしたかも知れないぼうぼうの白髪混じりの頭で、黒っぽい服は垢染み、ズボンもよれよれだった。玉のりを描いている爪には粘土がつまったまま黒くなっていた。(「…私の二十世紀」)
向かいのカフェ『オ・ピエロ』で夜明けまで意味の無いおしゃべりをした。髪はクシャクシャ、黒い背広には所々粘土がくっついたまま、爪の中も粘土だらけ、一間こじき風のその男と夜明けまでつき合っていたのは、彼の誠意に満ちた話し振り、皺だらけの彫りの深い顔から普通には無いもの、本物の芸術家のにおいが嗅ぎ取られたからだったのだろう。(「…想い出のパリ」)
私は何となく彼の気魄に押され始めていた。仕事の事しか頭にない。仕事の中でしか生きられない苦痛に満ちた彫りの深い顔が美しく見え出していた。
(夜明けまで起きている事はほとんどジャコメッティの日課であった。また、石井好子氏は当時ジャコメッティが著名な芸術家であると知らなかった。)
翌日、同じ頃、今度は矢内原さんが一人で現れた。
『アルベルトが来たんですって?』
と言った。向かいのキャフェに行ったが、私は疲れていてあまり物もいいたくなかった。彼も黙ったまま紙のテーブルかけに詩を書いていた。夜遅く男女が向かい合って座っているのに、その女は全くあっけらかんとしている、みたいな詩だった。何となくちぐはぐな気分で別れた。
(そのあと2ページほど、ジャコメッティと矢内原の仕事ぶりについて『ジャコメッテイとともに』からの引用が続く)
アネットから電話がかかり、ある日(「ジャコメッティとともに」によると10月26日)、彼らの家を訪れた。アレデア教会に近い静かな所だった。車も入らない露地を歩いて行くと、こんな所がパリにあったのかと驚くようなバラックが並んでいる。アトリエというより物置小屋だ。ギシギシきしむ戸をあけると、灰色の壁に包まれた寒々とした部屋で、矢内原さんはポーズをとり、ジャコメッティはカンバスに向かって灰色の肖像画を描いていた。
小さい石炭ストーブがすみにあるきり。裸電球の下で彼は煙草を喫いながら黙々と筆を動かし、矢内原さんは粗末な木の椅子に腰かけ、まっすぐに首をのばし、身動き一つしなかった。仕事の終わるまでアネットと私は長いこと待たされた。
寝室兼居間はいったん道に出て隣のドアから入る。ストーブが一つ。小さい洗面所とガスコンロ、木の椅子一脚、そして大きなベッドが一つあるだけ。ベッドが場所をとりすぎているので、居間の役目は果たしていない。
『近代的じゃないけど私たち、この家が好きなの。アルベルトは仕事場をかえるのがきらいなのね。でもストーブを燃すのは一仕事よ。』
私は木の椅子に、彼女はベッドに腰かけていた。 (つづく)
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