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読めない書の意味 [美術探訪]

石川九楊展で、吉本隆明の詩を題材にした書について考えた。

写真は「あたたかい風とあたたかい家はたいせつだ」という作品で、
誰も読めないだろうが、実は読めても詩の一部なので
全体を知らないと意味を誤解してしまうのだ。

この場合、読めない事が正しい受け取り方に通ずる。
筆触で詩の全体のパッションが表現されている、
そこを観て味わう必要があるのだろう。

元の詩は非常に長いので、最初の1行だけ抜き出すと
逆説、屈折が消えて詩として意味をなさない事が分かる。
つまり、この書は読めてはいけないのだ。

以下は元の詩の全文。

「ちいさな群への挨拶」

あたたかい風とあたたかい家とはたいせつだ
冬の背中からぼくをこごえさせるから
冬の真むこうへ出てゆくために
ぼくはちいさな微温をたちきる
おわりのない鎖  そのなかのひとつひとつの貌をわすれる
ぼくが街路へほうりだされたために
地球の脳髄は弛緩してしまう
ぼくの苦しみぬいたことを繁殖させないために
冬は女たちを遠ざける
ぼくは何処までゆこうとも
第四級のふうてん病院をでられない
ちいさなやさしい群よ
昨日までかなしかった
昨日までうれしかった人々よ
冬はふたつの極からぼくたちを緊めあげる
そうしてまだ生まれないぼくたちの子供をけっして生まれないようにする
こわれやすい神経をもったぼくの仲間よ
フロストの皮膜のしたで睡れ
そのあいだにぼくは立去ろう
ぼくたちの味方は破れ
戦火が乾いた風にのってやってきそうだから
ちいさなやさしい群よ
苛酷な夢とやさしい夢がたちきれるとき
ぼくは何をしたろう
ぼくの脳髄はおもたく  ぼくの肩は疲れているから
記憶という記憶はうつちやらなくてはいけない
みんなのやさしさと一緒に

ぼくはでてゆく
冬の圧力の真むこうへ
ひとりつきりで耐えられないから
たくさんの人と手をつなぐというのは嘘だから
ひとりつきりで抗争できないから
たくさんの人と手をつなぐというのは卑怯だから
ぼくはでてゆく
すべての時刻がむこうがわに加担しても
ぼくたちがしはらったものを
ずっと以前のぶんまでとりかえすために
すでにいらなくなったものにそれを思いしらせるために
ちいさなやさしい群よ
みんなは思い出のひとつひとつだ
ぼくはでてゆく
嫌悪のひとつひとつに出遇うために
ぼくはでてゆく
無数の敵のどまん中へ
ぼくは疲れている
がぼくの瞋りは無尽蔵だ

僕の孤独はほとんど極限に耐えられる
ぼくの肉体はほとんど苛酷に耐えられる
ぼくがたおれたらひとつの直接性がたおれる
もたれあうことをきらった反抗がたおれれる
ぼくがたおれたら同胞はぼくの屍体を
湿った忍従の穴へ埋めるにきまつている
ぼくがたおれたら収奪者は勢いをもりかえす

だからちいさなやさしい群よ
みんなひとつひとつの貌よ
さようなら


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