SSブログ
前の10件 | -

マスードの暗殺から10年目、ついにラバニ元大統領も [メディアから]

ラバニ元大統領.jpg

ちょうど10年前、あのマスードが暗殺された翌日に9.11テロが起こったのだった。
そして10年目の今年9月20日に今度はラバニ元大統領が同様に自爆テロで命を落とされた。

マスードが仕えていた、アフガニスタンの大統領であるが
近年はカルザイ政権の元でタリバンとの和平交渉に当たっていた、第一人者であった。
高潔な優れた政治家であったと聞くが、かえすがえすも残念なことである。
ご冥福をお祈りしたい。

カルザイ政権の頼りなさに失望しつつあるアメリカは
ラバニ元大統領に期待をかけていたようだが大きな痛手となった。

アフガニスタン情勢はタリバンが既に首都を包囲しているわけであるが
追いつめられたタジク勢力がラバニ氏の暗殺を梃に奮起して挽回できるであろうか。

オバマ政権のアフガン撤退策は,7月から始めるはずだった。
それはきわめて難しくなった。更なる増派に進む可能性が高い。
しかしアフガニスタンの民衆の支持が得られなければベトナムの二の舞の可能性もある。

松本復興相 [メディアから]

久しぶりに興奮しました。
昨日、7月4日のテレビ

松本復興相,宮城県知事の出迎えが遅れただけで激怒して、
ヤクザの親分が子分をたしなめるような暴言を吐いています。

http://www.youtube.com/watch?v=rrFd2Od-Cq8

福島県の瀬戸宏幸氏が、すでに昨年9月に段階で指摘しています。
松本龍氏は九州の「部落問題」利権のフィクサーで,
3つの暴力団と深い関わりを持つと書いておられるのです。
そういう人なら、あの発言は普段の生活がそのまま出ただけですね。

http://blog.livedoor.jp/the_radical_right/archives/52563093.html

まあ私なども「理不尽な怒り」にとらわれたことは再々ありますので
人のことを責める資格は無いですよ。
中年男性の生理なんでしょうか、闘争心は残っているのに
体力や忍耐力が衰える、妙に怒りっぽくなる時期があったおぼえがありますな。

間違った怒りにとらわれた点は恥ずかしいが自分にも憶えはあります。
でも考え方に,何か大きな勘違いがあるように思われますな・

発言を吟味すると、
『「自分は本店の人間で知事は支店の人間」
「支店の不祥事で本店がそれをフォローしなければならないから迷惑」
というパターンならこういう発言になる』という発言内容です。

宮城県・岩手県は永田町の支店ではありますまい。日本国の支店でもない。
日本国の一部、日本です。そして日本国のどこの地でもあり得た災害がこの地にふりかかっている。
国会議員なら「知事さんご苦労様です。国としてもがんばります。」という立場のはずですね。

どうも国会議員の感覚ではないように思われるのですが。。


蚊がいない? [メディアから]

例年この季節になると、夜寝るときに耳元で蚊の羽音が聞こえる事が多いですね。
『プ〜ン』という音には苛立たしい思いをするのですが、
今年は聞こえてきません。

同じような感想を持つ人がいるのではないかと思い、検索してみたら
やはりブログに書いている人がいました。 青梅市に住んでおられる方です。

http://r10.to/hBtMTg #r_blog
ニックネーム,カルドメックさん(愛犬家らしく、殺虫剤の名称)
2011年05月29日の記述

(引用)
- 今年は蚊がいない???
[カルドメック ]    

いつも、例年なら3月の終わりには蚊が出てくる。
朝、犬の散歩に雑木林に入ると「ブーン」と寄ってきては
サンダルから出た足の指あたりを刺して蚊は朝食にありついていた。
だからうちの犬は欠かさず4月頃から「フィラリア」の薬を毎年投薬している。
薬代は高いが愛犬の命には代えられない。
(中略)
それはさておき、この6月になっても散歩で雑木林に入っても蚊が寄ってこないのだ。
寄ってこないということはいないということだ。
こんなことは青梅に越してきて23年間で初めてのことだ。
我が家の門柱にいつも水たまりができるのだが、そこに毎年ボウフラがわく。
そうすると油をたらし、呼吸できなくして殺しているのだが、今年はまだ一匹も見ていない。
どうしたことか?害虫がいないのは

ありがたいが、何か気持ち悪い。

それにまだある。いつもうちの愛犬はこの時期、雑木林に入ると無数のダニの被害に遭ってくる。
ダニは大きくなると小豆大の大きさだでぶらぶら揺れている。(中略)

で、今年は蚊だけじゃなく、ダニも発生していない。
ダニとり薬を全く使わずに今日まできている。
いつもなら小豆大のダニがぶらぶら耳のあたりにぶら下がっている頃だ。
小さいダニもいない。

どういうことか?薬は来年も使えるからいいが…我が家の周辺のダニは絶滅したか?

(引用終わり)

この女性は5月29日の時点で「蚊がいない」と書いています。
さらに愛犬のダニもいないとも言及しています。

私は放射線の影響ではないかと危惧しています。

もしそうなら今年の夏は個人的にはクーラーは不要ですね。
床につくたびに背筋の寒い思いをするでしょうから.

あるいは蝉も出てこなかったら…レイチェル・カーソンの「沈黙の春」の世界です。
あれは「殺虫剤・農薬」の話ですが。
殺虫剤でも今は「ネオニコチノイド」系統が凄い威力で,
それだけでも『沈黙の春』は間近ではないかと思わせます。
分子レベルの微量で昆虫を殺傷しているので,蚊や蝉にとっては放射線以上の脅威であるかもしれません。
ミツバチの大量死の原因であろうと疑われていますね。

近所にめっきり少なくなった野良犬や野良猫たちも心配です。
この社会には町に人間と家畜以外の生き物がいることに嫌悪感を持つ人がたくさんいるようなので
そうした人々にとっては理想の環境が出現しつつあるのかもしれません。。

放射線拡散地図、半径300キロ [メディアから]

群馬大学の早川由起夫教授が作成された,半径300キロの拡散地図です.
明晰に表現されていて,その拡散の仕方が単純な距離に還元できないことに改めて驚きます。

放射線地図:群大.jpg

セシウム、太平洋への拡散 [メディアから]

セシウムの拡散を海外の研究者がシミュレートしています。
出所を改めて確認する必要がありますが,かなりすごいものです。

http://transport.nilu.no/products/browser/fpv_fuku?fpp=conccol_Cs-137_;region=Japan

conccol_Cs-137_20110331T210000.png

海が大変なことになっています。
この動画を見ますと、事態の深刻さに比べて
陸地、関東地方などに住むわれわれが放射線濃度において
「すぐに健康に害のあるレベルではない」程度で済んでいるのは、
まったくの幸運であって

季節と地震が偶然の組み合わせとすると、
まったくの偶然にすぎないと感じます。

この数週間に限ってのことですが
日本はまたしても『神風』に救われたのかもしれません。

しかしやがて放射線で汚染された海がわれわれに何を突きつけてくるか、
覚悟だけはしておきたいと思います.

神風に救われた日本ですが、「元寇」の影響が結局は鎌倉幕府を滅ぼしたように
現在の政権だけでなく日本の体制そのものが変質せざるを得ないような気がします.


大前研一氏の発言 [メディアから]

大前研一氏のブログにアップされている、13日の時点での発言

原子力発電の草創期に関わっていた氏は今でも体の中に放射性物質を抱えておられるという。
今16日だからもう少し早くアップしていただきたかった。

大前研一 BT757Chテレビ発言
『福島原発は緊急停止しなかったのではないか」

http://www.youtube.com/watch?v=U8VHmiM8-AQ

女性達とジャコメッティ(5) [美術史]

ジャコメッティはよくモデルを前にして
「顔と後頭部を同時に見ることができればいいのだが!」とこぼしていた。

もしかしたら彼は、モデルの頭の後ろに回り込む柔らかいアンテナの先端にくっついているような、
第三の目が欲しかったのかもしれない。

あるいはおそらく、モデルの頭部に潜り込んで、その内部の奥まった所を見る事さえ望んでいた。

彼の視覚上の探求心は、単に表層的な類似を達成する事によって満足するものではなかったのだ。
だからこそ、未知の見えないものに接近するのも可能になったのだろう。
彼は、その芸術によって生と死の認識の更新を成し遂げようとしていたのだろうか?
 
 ジャコメッティは好んでよく過去の偉大な巨匠たちの作品を模写した。
そして、同様に、現実の対象から制作する時も完全な類似を成し遂げようとした。
 しかし、厳密な類似を追求する肖像か胸像のために男性あるいは女性のモデルを前にした時、
アルベルトは決して満足しなかった。

 まるで何かが常に彼から逃げ去るかのようだった。
彼は、いかなる言葉によっても表現できないものを表現し、
形を与える事ができないものを視えるようにしようと試みていたのだろうか?
 そう、彼の手の熱狂的な動きが、私にそれを暗示していたように思われる。
 
 彼の「頭部の再現の不可能性」の問題に私もお互いの立場を超えて、深く心を打たれた。
それで二度目の訪問の時に、私は彼にこう尋ねたのだ。
「その仕事を私と試してごらんになりませんか?
 私は、あなたのためにポーズをとることができないでしょうか?」

 私は正直期待してはいなかったのだが、一週間たって、私の三回目のアトリエ訪問の時に 彼の方から
「君は、本当に私のためにポーズをとってくれるのかね?」と言ってきた。
 
 「ジャコメッティのモデルになりたい」などという申し出は、彼の拒否の可能性を恐れてこれまでにおそらく誰も口にしなかっただろうが、この場合実は無意味だった。

 実際、それは彼にとって受理か拒否かの類の問題では、もはやなかった。というのは、偶然だがより重要な決定因が関わったから。つまりアネットが風邪をひいて、そして彼は単に毎日の仕事を中断したくなかったのだ。

 私は持ち場を得て、後援者の役割から解放されたように感じた。いまや私は彼とのより直接的な関係を持つことができた。私は、他のどのモデルでも交換可能な、まさに「モデル」になったのだ。最初の短いセッションの間に、私は自分が彼の手によって繰り返して形作られている「物」になったような感じがした。

 デッサンにある抹消の痕跡のように、彼が粘土に人相学的な形を与えては削り取るので、その度に私が粘土のいまや私は彼とのより直接的な関係を持つことができた。私は、他のどのモデルでも交換可能な、まさに「モデル」になったのだ。
 
 最初の短いセッションの間に、私は自分が彼の手によって繰り返し形作られる「物」になったような感じがした。デッサンにもよく消された跡があるが、同様に彼が粘土にリアルな顔を与えてはあっというまに削り取るので、その度に私自身が粘土の中に現れては消え去るような気がしたのだ。

女性達とジャコメッティ(4) [美術史]

長い間ログを中断してしまいました。申し訳ありません。。
『女性達とジャコメッティ」というテーマの続きを掲載いたします。

前回,パオラ・カローラの胸像を見たことがないと書いたのですが,
その後、フランスから入手した本に図版がありましたので転載します。

パオラカローラ縮小.jpg


以下訳文です。

アルベルトが私の胸像を制作することに決めたとき、彼もまた自分の世界を私に開放してくれた。
つまりアネットとの二人の生活圏・友人たち・公的生活・私生活に通ずるドアを開けてくれたのだ。

 しかし、それ以前に、 我々が本当にお互いをわかるまで一ヵ月かかった。
言っておかねばならないが、私達は旧知の間柄ではなかった。
私が彼に初めて会ったのは、彼の住居兼仕事場に到着した時だったのだ。

イポリット・マンドロン通りにある未公表のそのアトリエで
私は住所を教えてくれた画家のロベルト・マッタの友人として,自己紹介をした。

私は最初から胸像を依頼するつもりでいたので、
アルベルトが私の胸像を制作してくれるかどうか話し合うために二度通った。

 二度目の訪問の際、彼は「頭部の制作は不可能だ」と言った。
しかし「現在の仕事が進んだので、最終的には今取り組んでいる頭部を完成し、
それから後日改めてパオラのものを造る」事を保証してくれた。
 これは私にとって当座諦めるに十分な提案だったろう。

しかし私は彼の言葉を文字通りには受けとらなかった。
彼が遠回しに私の申し出を拒否しようとしていたと思ったわけではない。

 彼は、他での異なる場面でも 全く同じように、
「頭部を造るのは不可能だ。」と、同様の答え方をしていたから、 私が思ったのは
「『頭部を作ることができない』というのはどういう意味なのだろうか?」ということだった。

当時の私には、 彼がそれによって何を言っているのかがよくわからなかった。
結局私にとっては、それは法廷の証言のような「彼の決まり文句」であった。

つまり彼が頭部を造る事に本当にまだ成功しなかったならば 、
彼は私の胸像や、より小さな依頼をも受け入れることができないはずだ。
これは、誰でも考える道理だ。

しかしなぜ彼は自分が望むものを達成できないのであろうか? 
そして、彼は何を成し遂げたかったのか? 
なぜ、彼はその成果に決して満足しなかったのだろうか?

ピカソとジャコメッティ [美術史]

ジロー.jpg

フランソワーズ・ジロー「ピカソとの生活」(瀬木慎一訳)を参考に
ピカソとジャコメッティの関わり、絵画観の違いを考えてみたいと思う。

時代は1947年か8年頃、アネットと結婚する前後
細長い彫刻に到達した直後の時期である。

「パリにいた時、私たちはサンジェルマン・デプレにある『プラズリ・リップ』で
よく食事した。パブロがくつろぎたいと思う時には、私たちと一緒の席で話のできる
芸術家を、そこに連れてきていた。彫刻家のジャコメッテイは彼のお気に入りの一人
だった。

私たちが夕方、リップの店の前で彼に会うと、いつもかれは、土が身体に
付いているようであり、服と髪は、いっぱいに灰色の塵をかぶっていた。

『君はジャコメッティのアトリエを見るべきだ。』とパブロは、ある夕方、
私に言った。『二人で彼を訪問しよう。』リップから帰る途中、
彼はジャコメッティに、いつ行けば会えるかと尋ねた。

『午後の一時前に来てもらえれば、いつでもいる。』と彼は言った。
『それより早くは起きないから。』」


★この返事がジャコメッティらしくて面白い。夜寝ないで仕事して
午前中寝る、という彼にとって当たり前の生活パターンが、ジョークに
聞こえてしまう。

★ピカソはジャコメッティに敬意に近い好意を持っており、彼のアトリエに自分から
訪れている。ピカソは70代の押しも押されぬ巨匠、ジャコメッティ は40代半ばの
中堅で、独自の様式が世界で評判になり始めた時期である。

日本の70代の「巨匠」は30歳も若い作家に表敬訪問したりするだろうか…。
ピカソは「洗濯舟」の時代の自分を思い出していたのかもしれない。
フランソワーズ・ジローはこの時20代後半、ピカソと出会ったときは
まだ22歳の画学生だった。

(つづく)


美術展図録:出版界のダーク・マター [メディアから]

日本で日々膨大な書籍が出版されているわけだが、実は「市販書籍」に登録されていない領域が膨大に存在する。

というのは、「アマゾン」を利用していて気がついたのだが、
国内の美術展の図録というのがまったく出てこない。
手持ちの図録を見ても「ISBN」(日本図書コード・書籍JANコード=国際標準図書番号)というあの記号がついていないのだ。

展覧会に行けなかった人が「図録だけでも入手したい」という需要はあるわけで、美術館だって売り上げを伸ばしたいはずだが、なぜなのだろうか。

展覧会図録という貴重な出版物が、出版界では、見えない物質「ダーク・マター」と化しているのである。

洋書では、海外の美術展の図録が容易に手に入る。

美術館での展覧会の図録は言うに及ばず、画廊で行った小さな個展でさえ
パンフレットに近いカタログ、図録がちゃんとアマゾンで購入できるのである。

逆に、日本の国公立美術館のどんな大きな企画でも、海外からAMAZONで購入する事はできない。
何とも不条理である。
日本の美術館・画廊は解説文を英語と併記するだけで、図録を世界に売り込む意志を放棄しているのだろうか。

前の10件 | -

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。